人と人

書きたい事というのは、毎日あるわけではない。書こうかなと思っても、やっぱり辞めておこうと思うことが多く、結果として書かない日が続く。

人間は常に変化していく。その変化には大きさがある。まわりの人間が気づかない程の小さな変化もあれば、世間の人が気がつく程の大きな変化もある。その差で、人はその人を判断しているのだろうが、僕からするとそれは無い。とても偉くなった人を素晴らしいとは思うし、喜びもある。それが例えもともとあった何か大きなものに、ただ乗っただけで、その人には才能が無かったとしても、実力のうちというのだろう。

いや、なんにしても僕は人のそういう事には無関心なのだ。

誰がどうなろうと、正直どうでもよい。
自分のするべき事、したい事があるので、その事だけでよいので、これから先もおそらく、周りの人間の変化に興味はないのかもしれない。いや、まぁ、わからないけど、、、

さて、こう考えると、友達に対する思いやりが無い、まわりの人の事をもっと考えてあげた方がよい、人との交流、つきあいが大切なんだと、言う人もいるし、僕の頭の中でもそういう言葉が出てくる。それならば、どうするべきなのだろうか、、わざわざ会うたびにお茶したり、飲みに行ったりするのだとしたら、とっくに僕の生活は経済的にも破綻してしまう。最近思うのだけれども、多くの人の情報をネットで見られるのはすごい事だけれど、人一人が出来る交流の限界を超えて、一人一人に対しての思いやりの厚さが薄くなっているように思うのだ。

会いたい人に会う
話したい人に話す
お祝いしたい人にお祝いする

という単純な行動は、クリックひとつで『いいね』が付く事で

数秒もかからずに終わる。

絵文字や顔文字で済んでしまう今の世の中は、相手の顔を見て、目を見て、真剣に伝える事を、ある意味で出来なくさせている。思いを伝える、時には涙して、時には笑って、そんなことは道端でも出来るくらい簡単なことなのに、小さい四角い箱から顔を動かさず、指を少し動かすだけの会話。

誰かの家にいってお茶を飲んだりする、時間を作って会いに行く、本当に会いたい人に会う、話したい人に会う、お祝いしたい人に会う時、僕ならそうする。これが、今の時代、わざわざ遠いところ足を運んでくれてありがとうではなく、そのような事ならメールで良いという。それだけ皆に時間がないのだろうか。便利になったのは、他の用事に時間を使える様になる事でもあるのだから、これからもその時間がどんどん増えるのだろう。けれど、人と人との関係は短縮して良いのかと言われると、僕には疑問なのである。

本当は不便なほうが良い便りが届くのだと思っている。


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